2013年4月22日月曜日

Anderson Bruford Wakeman Howe

僕が生まれて初めて行ったライヴは、1988年のYesだった。1973年以来15年ぶり2度目の来日で、その当時の最新作「Big Generator」のプロモーション・ツアーだった。
高校卒業を間近に、初めてライヴのチケットを入手した僕は、音楽の話題で盛り上がっていた友人の多くが、ほぼ同日程に行われたBOOWYの解散ライヴに行くと息巻いていたのを尻目に、一人別のベクトルでエキサイトしていた。

結論から言うと、初めてのライヴ、初めてのYesだというのに、僕にとっては思い出としても印象の薄いものになってしまっている。
その当時、僕の人生に最大のインパクトを与え、そして今も根底には確実に影響が残っているYesでも、当時のラインナップにはどこかしら物足りなさや違和感を感じていたのかもしれない。

僕は中学時代、ASIAをきっかけに'70年代の音楽を後追いで聴くようになった。中でもYesは夢中になったバンドだったが、その当時Yesは解散状態で、「90125」前夜だった。ASIAのデビュー・アルバムが1982年春で、「90125」が1983年秋にリリースされているから、たかだか1年半の中での出来事だが、その期間に僕はFMラジオで70'sの音楽を聴き漁り、Yesがどんなバンドだったかを、なんとなく自己消化していた。ASIAからYesへ遡ったという事は、僕にとってはSteve Howeがヒーローになったという事だった。

「Owner of a Lonely Heart」がラジオやMTVで流れ始めた時は、サンプラーやオケヒットの斬新な音に驚いたし、流行りの曲の一つとしてとても気に入った。僕は駆け出しの洋楽リスナーだったので、これをYesとして認める/認めないというような感情はなかった。
「へー、こういう形で復活したんだ」というような、淡々と、しかし嬉しい気持ちでいた。ASIAがいてYesも復活した。'70年代を知らなくても、なんだかワクワクさせられた1983年だった。

そうこうしているうちに、プログレ重鎮の方々は「苦難の'80年代」とか言われながらも手を替え品を替え離合集散しながらさまざま活躍し、'89年には「Anderson Bruford Wakeman Howe」が結成され、本家Yesが存在するにもかかわらず、それ以上にYesらしいグループが誕生するような事態まで生み出したのだった。

冒頭の「Big Generator」ツアーから2年後の1990年、ABWHは来日を果たした。
僕はこの時、東京と横浜の公演全てのチケットを入手し、足を運んだ。
既にこの頃は、僕がYesのどういった音楽が好きかを分かっていたワケで、「Fragile」「Close to the Edge」を作ったメンバーの4/5が揃った時点で、それは奇跡だった。
僕にとっては(厳密にはYesじゃないにしても)Steve Howeの復帰が嬉しかったし、そして何よりも、二度と無いだろうと思っていたBill Brufordの参加には本当に驚いた。
全盛期の'73年来日でも既にBillはいなかったし、最高傑作「Close to the Edge」に至っては一度もライヴに参加していなかったのだから、この来日公演には本当に特別な思いで臨んだのだった。

いま「ビル・ブルーフォード自伝」を読んでいる。いろいろなレビューで言われている事だが、誤植が多く(単純な校正不足と、訳した方のリサーチ不足?と思われるものが混在)、Billの独特の文体・言い回しもあり、けっこう読みづらいのだが、それでも面白く感じる、なんとも奇特な本だ。
その中でABWHから8人Yesに移行する際の件があるのだが、ABWHの創作活動にBillが積極的に、ポジティブに関わっていた表現があり少し意外に感じたのと、今更ながら嬉しくなった。8人YesはBillに限らず多くのメンバーがビジネスと割り切っていたのは知っていたが、ABWHは未発となってしまった2nd「Dialogue」(Yes「Union」の元ネタとなった)の制作途中までは、全員が健全な状態で活動に取り組んでいたようだった。

その後僕は8人Yesのライヴに1度だけ足を運び、それ以来Yesのライヴには行っていない。8人ライヴを観て「もういいや」と思ってしまったし、ABWHのライヴと比較しても、あれ以上のものはもう望めないと思った。

Billの自伝を読んで、改めてABWHは良いユニットだった、もう少し長く活動して欲しかったという当時の記憶が甦った。
また、Billはもう引退してしまったが、「ブルーフォード」という本来の発音に近い名前の表記が、日本に浸透すれば良いなぁと思う。









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